妻の知人がおちょやんを
「DV親父なのに愛嬌でごまかすのが嫌」で見ていないらしく、
私はもったいないなと返したんですね。
すると妻がこうツッコミを入れてきました。
私の批判する前作の「箱庭インパール」と何が違うのかと。
ごまかしている意味でいっしょではないかと。
いや感覚的にゼッタイ違うんだけどうまく言葉にできなくて
ずっと考えていたんです。
で、先週だったか、北村一輝さんがごごナマで
スカーレット常治の役づくりについて、
こんなふうに語っておられてピンときました。
「昭和の親父はこうだったと今の若い人に見せたい」
「現代の視点ではダメ親父だけど愛情あっての行動だ、と意識した」。
確かに、常治もテルヲも「DV親父を愛嬌でごまかしている」けれど
ダメな部分の裏にある愛情によって中和しているんですね。
ダメを尖らせたうえで、愛情を尖らせる。
どちらも「あるもの」だから、そこに嘘はないわけです。
いっぽう、私の批判する「箱庭インパール」は
尖らせるのではなく削り取っている。
あるものを「ないもの」に見せているから、それは嘘だと思うわけです。
私の尊敬するツイッターの相互さんは、
インパールで悲惨だったのは敵とドンパチすることではなく、
人間が人間でなくなることだと書かれていました。
もしあのドラマで、
主人公がもらったクッキーを若い兵士が盗んで逃げていたら。
そういうインパールの解釈を少しでも見せていたら、
私は最後まで見続けた…かもしれません。かもですがw
大正や昭和初期にはダメ親父が確かに存在しました。
その時代を描くのに、なかったことにはできない。
視聴者に嫌がられたとしても描かなければ嘘になるから、
確かにあった愛情でもってやわらげる。
視聴者が嫌がるからなかったことにするのと
どちらが誠実な態度でしょうか。
逃げずに描いているのはどちらでしょうか。
もちろんドラマなので好き嫌いはあって当然です。
でもそれは視聴者側の話であって、
作り手の側は一貫して誠実な態度でいてほしいんですよね。
NHKですから。