菅田将暉をサプライズ登場要員にするなんて贅沢すぎる。素直に声出して驚いてしまった。脱力タイムズのアンタッチャブル復活回みたいだ。
踏み台にされた岡崎体育へのケアはしっかりしてほしい。
今回も情報量が多いのに、登場人物に全てを語らせず、演出や映像で補うように視聴者に理解させたのが素晴らしいと思った。
玉は自分の意思で進むわけではない。弾かれ、回転し、進むその道は、必ずしも自分で選んだものではない。
犯罪者になるかならないかの分岐点は自分で選べるものではないことを、転がる玉が理解させる。
そして、それを止められるのが伊吹。溢してしまったのが九重。残酷な比喩だと思う。
(比喩について言えば、他にも子供たちの悪戯の円陣と大人たちの本気の円陣など、挙げればキリがないので省略。)
前回の加々見と伊吹が犯罪者と警察官に分岐したのもこの程度の差なんだろう。避けられない障害物の数が少し違っただけ。
第2話と共通したメッセージはもう一つ。時は戻せないこと。
九重がどんなに後悔しても、自業自得では片付けられない、抗えない力の中で罪を背負うことになる子供を生み出す前には、戻れない。
きっといつか、あの時声をかければ成川も「少しの罰を受ける陸上部」に加われたはずだったと後悔するだろう。
でも、それはできない。罪を犯す前に戻れないのと同じように、「救えなかった」その分岐点には戻ることはできない。
だから志摩と伊吹は、決定的な罪を犯す前に救おうと奔走する。
決定的な失敗をしたことがない九重は、罪を犯したなら裁けばいいという考えだから、2人のような必死さがない。たとえ裁かれるとしても、反省では済まされない罪を犯した場合と、いたずらで済まされる罪をを犯した場合ではその後の復帰が大きく異なることを彼はまだ知らない。
こんな痛みで知るのはかわいそうかもしれないけど、多分必死になっている志摩と伊吹も、こういうことを乗り越えてきた。誰かの痛みでしか学べない、警察は悲しい仕事かもしれない。
そもそも、自己表現のためにいたずらを主導した成川と他の部員とでは、「戻りやすさ」はかなり違ったと思う。
成川を追いかけたのが志摩や伊吹なら、最後に声をかけただろうと思ったけれど、それでも成川は戻ってこなかったかもしれない。最後の最後に夜の街へ消えることを望んだのは彼自身の意思だったから。子供にそう思わせた時点で大人としては心苦しい。
だから、九重のせいで成川が取り返しのつかない地点へ行ってしまったわけでもないかもしれない。元々成川と他の部員とでは、道に置かれている障害物の数が違ったんだろう。