「大事なもんを大事にせえ」
今日の喜美ちゃんが直ちゃんに向けた言葉。ズンと来ました。
この半年を振り返ると、結局のところ、このシンプルなメッセージがスカーレットの唯一の核であり真骨頂だった気がします。
大事なもんをちゃんと大事にするにはパワーも覚悟もいる。お金や人の協力が必要になる時だってある。しかも大事なものはずっとひとつじゃない。1日1日を生きていく中で、大事なもんは増えるし、変わるし、でも人は生きている限りその毎日の中でその時その時の一番大事なもんを見極めてもいかなければならない。
喜美ちゃんにとってそれは家族のために稼ぐことだったり、フカ先生からの学びだったり、ハチさんとの生活だったり、穴窯を成功させることだったり、今は武志が生き生きと過ごす日々がきっとその「大事なもん」。
日々を生きていく中で移り変わる大事なもんにどう気付き、どう向き合い、どう選び取るのか。そして、どう守るのか。
スカーレットという物語は、そういう「大事なもん」に対する
ウチはこうするで!
っていう、ひとりのヒロインの「選び取り方」「向き合い方」を、決して派手ではないその一生をかけて実直に辛抱強く見せてくれた、そういう物語だった気がする。
そして、
ここでこのドラマが凄かったところ…いわゆる“他の朝ドラとちゃうなコレ!”と言われた所以は、その「向き合い方」「大事に仕方」について独善の正解を作らなかったことだと思う。
例えば喜美ちゃんとハチさん。
サニーのカップを作った代金をどうするのか。2人の生活を何を軸にどう組み立てていくのか。大事にしようとするものは同じ「大野家への思い」だったり「ふたりで生きていくこと」なのに、どの方法をとるかで対立が起こる。
代金を貰うべきなのかそれとも贈り物とすべきなのか。その葛藤を残酷なまでに詳細に見せた上で、最後まで決して「こっちが正しかった」「あれが間違いだった」というジャッジは下さない。
ただそこに示されたのは「納得出来んけど受け入れます」という受容の姿勢と、その後淡々と進む毎日の描写だけだ。
登場人物にしてもそうだ。
借金取りのおっちゃんは残酷だが、それは常治が金を返さなかったからであっておっちゃんは自分の職責を真面目に全うしているただの仕事人。“悪い人”ではない。
その常治はといえば喜美ちゃんを自分の所有物として扱い、女を見下すような昭和のクソオヤジだが、喜美ちゃんや家族に対する深い愛情に嘘偽りがあるわけでは決してない。
じゃあ「間違った人」「悪い人」ってどこにいるの?
「自分と違う人」は沢山いる。
てか、世の中に自分と全く同じ環境で同じ条件で同じ考え方を持って生きてる人間なんて、それこそ絶対にひとりもいないのだ。
では、その価値観や環境や趣味嗜好が「違う人」たちを自分の対極に位置する「悪者」と捉えて排除していく行為は、人生の豊かさを損なうことに繋がらない?
水橋脚本は、そんなことを常に「問い掛ける」脚本だったなと思う。
テンプレな予定調和と程遠いこの物語描写、人物描写が
「えっ?私こう思うんだけど喜美ちゃん違うの?」
「ハチさんの言うことも分かるけどソコはこっちのが大事じゃない?」
「で、この人いい人?悪い人!?」
と、見る側を“自分の価値観との葛藤”に巻き込んだ。
そして、皆が考えた。
「私ならどうする???」
モデルとなる人物の歴史も翌週の粗筋も全て明らかにされている中で、そしてある意味、予定調和の物語を順を追って見ていくことがデフォルトとされる朝ドラにおいて、ここまで見る者を巻き込んで
「アンタは何が大事なん!?」
「アンタはそれをどう守るん!?」
と投げかけ、考えさせたドラマは稀有であったと思う。
(いやまだ終わってないけど)
武志の病気というトピックにしても、普通の連続ドラマなら最終週をある意味おいしく美しく盛り上げてくれるであろう「主要人物の死」を、全くそういう悲劇的なクライマックスとして描こうとはしていない。
水橋脚本&中島演出は、きっとこのまま
武志にとっても明るい明日、希望の未来は続くねんで。
生きてる限り、続くねんで。
という終わり方を極上の空気感で見せてくれるのではないかと勝手に期待している。
大事なもんは大事にせにゃいかん。
大事にするやり方はいろいろあんねんで。
あんたはどれを選ぶん?
どう進むん?
いろんな人や出来事を受け入れながら、
でも、最後、
自分の人生に責任持てるのは自分だけやで?
ほんまや。
喜美ちゃん、ありがとう。
こんなに終わるのが惜しい朝ドラ、
初めてです。